火と水と土~抵抗と再生としてのシンプルな暮らし

鎌田陽司 / Kamata Yoji 1(日本)

宙の学舎 代表 / 2006年度ALFPフェロー

気候変動は、人間の愚かしさの象徴である。生きるための生存基盤を自ら壊しているのに、その行動を改めることができない。とうとう、手遅れと言われる状況を私たちは生きることとなった。人間の愚かしさを利用し助長することで、力を得るという非道が主流となっているこの世界。それでも、何もせずに手をこまねいて生きるのは辛い。未来の世代のためにも、今できることはやる。そうやって、自分の心身の健康をなんとか保ちながら、希望に続く道がありえることを信じ、探し、創ろうとする。自分自身が世界の問題の一部であることは免れないが、それでも、解決の一部でもあるために、できることはいろいろあるのだと思う。こうあるべきという自分の考えと日々の暮らしをできるだけ首尾一貫したものにしていくこと。この小さな方針は、人として生きる喜びを日々の暮らしの中で少しずつ育んでくれる。

ロケット・キッチン・ストーブ
(近くで自然農を営む友人が開発した)

持続可能な世界を実現するために、私自身ができることの一つとして、地球1個分以下の暮らしを一つの社会実験として実践している。この暮らしは実に気分がいい。調理はほぼすべてロケット・キッチン・ストーブ。燃料は、一つは竹。裏の竹林から枯れた竹を運び出し、手足でバキバキと割りながら使う。使えば使うほど、竹林がきれいに、そして健康になっていく。放置された竹林は根が弱り、竹林ごと地滑りの危険もあるので、家の裏の竹林を整備することは、家と命を守ることでもある。その上、副産物として、4月から5月にかけて、食べきれないほどのたけのこが取れるようになった。たけのこはギフトエコノミーの実践として、たけのこが食べられない東北と関東の放射能汚染地の友人たちに贈ったりしている。それでもたけのこは余るので、干したけのこを作っているのだが、これがおいしいと評判だ。噛むほどに味がでるので、「Neo忍者食 山スルメ」と命名した。そう、私の住む地域は、忍者のふるさと。忍者の起源には諸説あるが、古代の最先端の製鉄技術を持った豪族が朝廷からにらまれて、山里でゲリラ戦を挑んだのが起源の一つと言われており、私が住む山里がまさにその舞台となったところである。話が横道にそれたが、調理のためにエネルギーを消費するという行為が、竹林をきれいに健康にし、小さな温かい経済やおいしい食材を生み出している。消費すればするほど、悪循環ではなく、良い循環が回るというのが、何とも言えず気持ちが良い。土間に火がある暮らしは、人間のDNAの中に何万年もかけて育まれた安らぎの気持ちをも優しく喚起してくれる。

水は井戸水。おかげさまで、雨が降らなくても枯れたことはなく、大雨が降っても濁ったことがない。調理や飲用には必ず井戸水を使っている。つるべ式で少し手間のかかるこの井戸も、人が水を汲むことで水が滞らず、また、水面が上下することで空気が入り込む。言ってみれば井戸の呼吸と運動だ。人が自分のために水を得る行為が、井戸の健康の維持に直結している。そのことが感じながら、井戸水を汲み、その水を飲むと、心の底から気持ちよさが湧いてくる。おまけに井戸水は温度が年間を通じてほぼ一定なので、冬はぬるま湯のようにあたたかく感じられ、夏はほどよく冷えていて清涼さをもたらしてくれる。たまに外で沐浴をするのにも最適の水だ。目の前の清流では、時代錯誤の巨大ダム開発(川上ダム)と広域水道化が進められている。忍者の里の住人たちは、権力への抵抗のスピリットを蘇らせたが、結局、50年前の計画をゾンビのように蘇らそうとする国の力の前に敗北を余儀なくされた。広域水道に頼らず、自前の水を使い、未来につなげていく日々の営みは、中央集権的で破壊的な水資源開発へのささやかな抵抗でもある。

トイレは畑ですます。これがまた気持ちよい。都会で暮らしていたときは、トイレの水洗便所を生理的必要に迫られて使ったのだが、自分の体内にあって自分自身の一部でもあったものが、トイレで出した途端に、ごみのように扱われ、貴重な水を消費しながら流され、環境負荷を減らすためにエネルギーを使いながら処理される。これではまるで、自分はごみ製造機ではないか。しかし、畑で大小をすますことは、大地を肥沃にし、畑の豊かな実りをもたらしてくれる。環境に負荷をかけることもなく、むしろ豊かさを与えることができる。それも毎日、何度も!この気持ちよさを知ってしまうと、外出先でトイレを使わなければならないときに、大地のために良いことをするチャンスを1回失うような気持ちになって、もったいないと思うのだ。ただし、この実践はなかなか家族や同居している仲間たちには広がらなかった。毎回場所を変えてバランスよく大地に豊饒さをもたらすために、とくに囲いなどもしないため、女性には実践が難しい。また、すぐ食べる野菜には直接かからないようにしているのだが、人の糞便が与えられている畑の野菜は、衛生上は問題がなくても、なんとなく気になるというのもわかる。なので、人に強いて勧めることもなく、また排泄する場所にもルールを設けて、同居人たちに嫌がられないようにしながら、日々、密やかな実践を楽しんでいる。

愛娘のナウシカ、シータと

住んでいるのは築200年とも言われる大きな古民家で、家族だけで占有するのはもったいないということもあり、だいたいいつも、同居人がいる。同居人には田んぼや畑の作業や日々のやるべきことを分担してもらいながら、土に根ざした暮らし、人とともに暮らす心のあり方、よりよい世界を創るための社会活動をともに実践し、学んでもらっている。学びと暮らしが一体となった実践の場。土の学び、心の学び、社会の学びを3つの学び=実践の軸とし、時折、学びのおすそわけとして、関心がある人が参加できるさまざまな学びの機会を提供している。

こうした暮らしの結果として、エコロジカルフットプリントで計算すると、地球0.8個分の暮らしを実現できていることがわかった。日本の平均値の約三分の一。これならば、地球環境を壊さずに暮らしていくことができる。もちろん、みながすぐこの暮らしに移行できるわけでもないので、私の実践していることは解決策とは言えない。だけれども、暮らしの気持ちよさを心の底から味わい、暮らしの豊かさを日々享受しながら、地球1個分以下の暮らしが実現できることは、一つの生きた実例として、これからの生き方を考える参考にはなるのだと思う。実際、地域では大人たちよりも、中学生ぐらいの子どもたちの方が、この暮らしの意味や価値に素直に気づいて、感動してくれる。本当にささやかな実践だが、心の底からの気持ちの良さを感じるということ、そして、体験した子どもたちがとても喜んでくれるということが、実践の正しさを証明するささやかな証となっている。

            

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※本記事の内容や意見は著者個人の見解です。

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